日本武道の転換点「学校剣道」の誕生
明治13年、「教育令」が改正される。元老院で審議、体操科目に「武技」を加えるか論じられる。明治16年5月、「旧藩時代のごとく剣術を採用せよ」との世論に対し、文部省は旧来の武術の中から、「剣術」と「武術」の二つを選定して「学校体操」として採用するかどうかの可否を問う。明治28年、日清戦争勝利。日本武術、剣術、日本刀が俄かに見直される、特に剣術、柔術の修練者が大いに戦功を立てたことにより、剣術、柔術が評価されるようになる。
明治30年2月、小澤一郎(水戸東武館)、柴田克己(長野修武館)らが剣術の学校正課編入を求める請願書を帝國議会宛に提出。(実現までに提出回数14回に及ぶ)。
明治38年11月、文部省体操遊戯調査会による「撃剣、柔道の教育上の利害適否」の調査が完了する。
明治39年3月、第22回帝國議会「体育に関する建議案、星野仙蔵ほか。衆議院で可決する。剣術。柔術とその形の内一つ選択。星野仙蔵、小澤愛次郎などが武道を学校正課とするため、体育に関する建議案が修正可決され、学校正課編入のための調査研究を開始する。(後に星野仙蔵、小澤愛次郎は高野佐三郎先生の明信館に加盟、大澤専二、高野茂義と共に高野門の四天王と称される)
気品の剣士大澤専二とその時代
近代武道史